連絡通路

脳と現実の連絡通路

ワナビーに諦念は付き物

 読書することを我慢しているな、と思う。本を読むのなんてそんなに大した時間を使わない。アニメを視聴するのに比べたら、はるかに短い時間で済むはずだ。

 にも関わらず、最近の自分は読書をすることから目を逸らしている。

 なぜだろうと考えてみたら、答えはすぐに出た。要するに「本を読んだって何も変わりはしない」と思っているからだ。例えば、Amazonの人気ランキングで上位に位置している本だったり、はてブの上位に食い込んだ書評で紹介されている本だったり、それはなんだって良いんだが、ふと目に入ってきた本の中には気になる物も存在している。センサーに引っかかるってやつだ。

 ここで読んでおけばなんらかの気づきが得られるだろうな、と思えるような本たちだ。感度の下がったセンサーにも引っかかるような物だから、読んだら何かを得られるに違いないのだ。

 そういった本を無視している。おそらく無意識的にだ。読書をしようと思ったらいくらでも時間はある。Twitterを削っても良いし、アニメの視聴本数を減らしても良い。でも、読むことができない。

 どうしてなのかは自分が一番わかって居る。いくら読書をしても、小説を書けるようにならないからだ。

 唐突に思えるが、これが理由なのだ。かつての自分は、読書を続けていればいずれは自分が小説を書けるようになると信じていた。そのため、暇があれば読書をし、読書をしているだけでは駄目だと思い洋画やアニメにも目を通していた。たくさんの作品を身体に通していたのだ。

 その時間は甘美だった。いつかは書けるであろう小説に向けて材料を着々と溜めているつもりだった。将来する旅行へ向けて貯金をしているようなものだ。溜めていればいつかは旅に出ることができる。そう信じて疑わなかった。

 それゆえに、難しい本を読むこともできた。難しい本を読む人間は少数なので、他の人間との差別化ができると考えたからだ。抽象的な概念を理解することが、物語の作成に役立つと思ったのである。

 ところが、いつまで経っても小説を書けるようにはならなかった。当たり前だ。小説を書こうとしていないわけだから。当時の自分が何を考えていたのかは分からない。単純に余裕がなかったのかもしれない。キーボードを叩いて文章を書くことすらやっていなかった。書いていたのは大学のレポートくらいなものである。

 ある時、一念発起してこれと似たようなブログを作ってみた。そこではアニメの感想だったり、本の書評だったり、掌編小説だったり、色々なことを書いた。けれども、それも長くは続かなかった。なぜだろう。その時は「どんなくだらないことでも良いから毎日書く」を目標にしていたのだが、少しでも間が空くとそんな目標もどうでもよくなってしまった。

 それからはブログを立ち上げては消し、立ち上げては消しの繰り返しである。多分、一念発起して作ったブログで自分に才能がないことをまざまざと突きつけられたのがいけないのだろう。今までたくさんの読書をして蓄積していたはずの知識はどこにもなく、物語を綴るにしても登場人物を描写することすら叶わなかった。

 あれ以来、「本を読んでも、ブログに日記を書いても、自分には魅力ある文章は書けない」という絶望的な事実に苛まれている気がする。日本語で金を稼ぐことは諦め、プログラミングに手を出してみたら、そちらはスカッとハマった。少し勉強しただけですぐにプログラミングだけで悠々自適とした生活ができるようになった。とは言っても、1企業のサラリーマンなので、そこまでできるわけではないが。

 でも、本当はプログラミングではなく、日本語の物語で糧を得たいのだ。いや、それは望み過ぎかもしれない。せめて、趣味でいいから小説を書いて、それが少数の人間でもいいから褒められるようになりたいのだ。けれど自分には書きたい物語が存在しない。どこまでいっても自分語りしかできない。

 ここにこうして日記を書いているのも、自分の諦めが悪いからだろう。文章を書いてさえいれば、いつかは小説も書けるようになるだろう、書きたい物語が見つかるだろうと内心では考えているのだ。浅はかだけども、こうして足掻くことしかできない。足掻けなくなったらそれこそ精神的な死を迎えるかもしれない。

 つらつらと書いてしまったが、これが現在の心境だ。あぁ、自分は読書というものを心の底から楽しんではいなかったのだな。何かの為の勉強材料としかみなしてなかったのだな、ということを改めて認識している。それでいて自分語りしかできないなんて、滑稽な話ではないだろうか。